玉川病院のご紹介

病院長のご挨拶

太古の多摩川の流れによって形成された川岸の高台が立川市から世田谷区まで続いています。国分寺崖線と呼ばれ市街地より20m前後の高さで見晴らしが良く、各所に湧水があって石器時代の昔からの住居跡がある景勝の地、そこに当院は建てられています。明治から大正にかけて二子玉川近辺の国分寺崖線には東京郊外の景勝地として多くの華族、政財界人の別荘や別邸が建てられました。

現在でも三菱岩崎家の静嘉堂文庫や東急電鉄の五島美術館、小坂邸跡の瀬田四丁目公園などが当時の面影を良く残しています。そのうちの一つ静嘉堂文庫の近くにあった清水建設重役の清水楊之助氏別邸が当院の前身ということもあり、眺望、環境のよさは遺産、財産として今に引き継がれています。高台ゆえに周囲の圧迫を感じず世の喧騒から離れて静かな緑に囲まれた病室、別邸当時からの残された桜は大木となり春には病院を埋め尽くすほどに咲き誇り、見事な眺めとして入院、来訪の方々の目を楽しませます。現在では貴重で贅沢とされるようなこの環境はどのような貧しい時、厳しい時においても失われることの無かった当院の豊かさや余裕の象徴として大切にしています。

戦後に設立された多くの病院がそうであったように、当院も都会における結核治療を目的として戦前の財閥、日産コンチェルンの総裁であった鮎川儀介氏の発意と資金援助によって昭和28年(1953)に設立されました。抜群の環境とはいえそれは反面、当時の交通事情からすれば遠い、不便、坂の上ということでもあり、開院当初より経営状況は厳しく敷地の一部を切り売りしながら凌ぐという状況だったそうです。

また 1960 年前後には労働争議の渦中にあり医療どころではない状況も経験しています。この頃になると本体の結核医療も衰退し、ますます経営不振となっていた。1969年玉川高島屋の進出によって二子玉川界隈の近代化が始まり、また日本全体も東京オリンピック以降の高度成長期にあり活発な展開を見せる中、わが玉川病院は長引く経営不振と“隔離された環境”の中で古ぼけた木造建築のまま建て替えもままならず時代から取り残された姿だったのです1982年、日産自動車からの資金援助によって全面改築が行われようやく近代化へと歩みだした。

当院と日産自動車とは共に日産コンチェルン創始者、鮎川儀介氏に繋がる系譜とはいえ直接的な関係はありません。そのため建物は日産自動車のものであり、それを賃借するという形式になっていました。このとき以来、日産玉川病院と称せられることが多くなり企業病院的イメージになったのは仕方の無いこととはいえ、当時の職員からすれば忸怩たる思いもあったようです。

設計は建築家 吉村順三氏に依頼されました。氏の設計理念が込められた建物は、当時の機能性合理性を求めた病院建築の中では画期的で、時代を先取りしていました。

エントランスには所謂アトリウム空間があり、噴水が配してある。最近でこそ新しい病院のエントランスには豪華アトリウムを持つものが多いが、当時このような病院らしくない“入り口”は“まるでホテルのような!”と称されていました。病院といえどもそこを利用する人々には心地よい穏やかな時間と空間が必要である、という吉村氏の理念が表されています。

通路、廊下は絨毯張りであった。病院の廊下や病室は衛生面、感染予防の面からツルツルでなくてはならない、とされていた頃ですが雑音、騒音の発生を抑え出来るだけ静寂な中の医療を期した構造となっていた。病棟、病室の照明は入院患者さんの立場を考慮して照明を落としやや暗くしてあった。それらは一方、医療サイドからすれば非機能的であり、非衛生的であり不合理であった。病院建築は機能性のみを追及したものばかりといった中でこの建築設計理念はその後の玉川病院の基本理念とも一致し医療の方向性を決定づけました。

今では当たり前である“患者の視点”を優先、重視し、たとえ機能的な面で不合理、不便であっても患者サイドから望ましければ積極的に許容していく。もしそれが科学的、医学的に問題があったとしても妥当性を探る。多少の不合理さ、不便さは医療従事者たちの努力と工夫によって解消すればよい。本来、医療には思いやりが満ちていなければならない。そのような当院の文化を育ててくれた建物の心を病院の心として、以来大切に守っています。

その後、結核医療主体から脱皮し、一般医療、総合病院への形態を整えつつも公益法人の使命を忘れることなく常に公益性を求めてきました。

高齢化社会の到来と共に社会問題となった脳卒中患者のリハビリテ-ションを都市部においてはどうするかという問題に先進的に取り組んできた当院のリハ部門は、その医療での成果だけでなく行政や医療界に対する働きかけ、指導的活動など社会的な活動によっても高い評価を受けてきました。採算性の良くないこれらの部門を支えているのは公益性に対する意識、公益法人としての気概であるといえます。

また、時代を先取りし社会的な評価を得た専門医療も展開してきました。世界に先駆けて開発し低侵襲手術の火付け役となった自然気胸の内視鏡(胸腔鏡)治療の気胸センター、人工股関節治療の圧倒的良好な成績で日本をリードする股関節センター、安定した臨床実績を誇る腎透析センター、診断と治療及びフォローアップ調査などを特徴とするヘルニアセンターなどが玉川病院の評価を高めるものとなっています。

以上の部門には臨床のみならず研究活動も充実していることを評価し、研究センターとして研究費を予算付け、活動への助成を行っている。このように専門医療の看板としてセンターを標榜し、世に先駆けて導入、実践してきたことは一民間病院としては大いに誇れることと考えます。まだまだ未整備のことが多い(周回遅れ、半周遅れなどと称しています)病院ですが、場所柄住民意識が高く医療への厳しい批評によって洗練される、公益法人であることによる社会的責務への高い意識が必要である、そして民間病院という自由度の高い立場を有効に利用したフットワークの良い活動が可能である、これからを活動のエネルギーとして日々研鑽を積んでいます。

院長 中嶋昭

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